終戦記念日に思うこと (東京大空襲に思いを馳せる)

8月15日は旧暦の御盆でもありますが、終戦記念日でもありますね。

 

自分がそこに住まう土地のモノとして、また脈々と繋がってきた血縁として、当たり前に知っていることは、多くの人が知らないことなのだと気付いてから 最近 とみに 伝え残さなくてはと思うようになりました。 これも 世の中の不穏な流れや 穏やかな日々を揺り動かす大きな流れを感じているからなのかもしれません。 ただ、どう何をすればいいのか、自分にできることなのか と思います。

 

自分が子供のころに思ったこと 「何でそんな戦争になっていくのをオトナ達は誰も何も言わなかったのだろう、反対しなかったのだろう? 誰もわからなかったのかなぁ」という疑問。 今は自分が大人の立場の方になっている。 かつて、子供の私に大人は答えてくれました。 「う~ん” 誰もそんなことになるとも思っていなかったからなぁ””」 子供の時は「え~” そうかなぁ~” 変なの~””」と思いながらも「ふ~ん・・・。」でしたが、多分、それが本当で真実なのだとこの年齢になって思います。 自分がそう言われないようにしたいです。

 

下町と言われるあたりは東京大空襲で焼け野原になった とは耳にするでしょうが、 このリンク先の地図の赤いところが全部消失区域です。 本当に何も無くなったから 遠くまでよく見えたそうです。 この図の中央の荒川と隅田川に囲まれた真っ赤な地域が墨田区・江東区にあたり、少し左に(隅田川を渡った所)に台東区・中央区があります。 それは3月10日とのことですから、約5カ月後に終戦の日を迎えたことになります。

 

なぜ、そこまで焼き尽くされたかというのは、「焼夷弾」が降ってきた・・・と言う言い方を皆さんします・・・それくらいにバラバラと上から(飛行機から)落とされて燃やされたからです。 燃え尽くす目的のものがバラバラ降ってきたと表現されるくらい投下されたからです。 その焼夷弾が落ちてくる音が風を切ってヒューヒューというのが、皆怖かったと聞きます。 花火が上がる時に側で見たことがある方は解ると思うのですが、ひゅるひゅるひゅるひゅるーという音、あの音はまさに思いだすような音だそうです。 

こちらのリンク先のHPはどのような方のものかはちょっと判らないのですが、とてもよく書いてあるとおもいました。 私の叔父も 首の無い赤ちゃんを背負っている母とか、ただ燃えるのを放心して見ているだけの大人達とか(私の叔父でさえまだ10代半ばでした)叔父は身体が小さかったので押しつぶされないように逃げるのも大変だったそうです。 ガード下で一休みしていると(もちろんヒトがいっぱいいる)いきなりそこにも火の手が上がってきて、その火の周りの早さはあっという間だそうで、ヒトの衣服から衣服へです。 それくらい人もあふれかえっているからです。 助けを近くの人に求めて手を伸ばすからです。

 

黒焦げの死体を 跨いで跨いで進み、自分が転ばないように歩くのでせいいっぱいだったそうです。 そういう状況下でなぜ隣の人が焼夷弾で燃え上がり、自分は吹き飛ばされて助かったのか 後から考えることのようです。 なんで無事だったのかわからないと言います。 まだまだ話は尽きないのですが、今日はここまでにします。

 

また今度 ・・・いつか 記そうと思っていましたが・・・ 一夜に数万人の死体です。 公園に山積みにして御供養する以外、リンク先のHPでは「埋める」と書かれていますが、埋めきれなくて山積みでなんとか土をかけたと聞いています。 あとは当時の埋め立て地まで運んだそうです。 川もいっぱいだったそうです。 

 

1945年から70年近くたった今ですが、忘れてしまうには早すぎる過去だと思えてなりません。